粗食の薦め


大切なものは失ってわかるという。中でも健康はその際たるものだ。

日ごろの不摂生を反省し1泊2日の検査入院をした。

都合3回の病院食をいただいたが、量が少なく、味が薄く、おかずが少ない。栄養士さんの前では口憚るが、正直「まずい」。毎食600Kcalを目安に一日1800Kcalを目標にしているとのことだ。少し反省しついでに日ごろの自分の摂取カロリーを計算してみた。大体2500から3000Kcalぐらいとっている勘定だ。それを越えるケースもちょこちょこある。意志薄弱な自分を責めたくは無いので、太る原因はほかに求めることにした。友人が悪いのだ。なかでも、旨い物をよく知っていて、飲んでかつ楽しい友人は最悪だ。私の辞書に「No」が無いことを知っているようだ。しかも、悪いことに、栄養士さんがくれた食品群を見ていてわかったことは、旨いものは健康に悪く、まずいものは健康に良いようだ。

ふと、宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」の詩の中で一日の食事について、「玄米4合と味噌と野菜」があれば良いと言及していたことを思い出した。それから計算すると大体1500Kcalぐらいだ。しかも健康にもよさそうだ。アメリカの友人が言っていた究極のダイエット、「ルールはシンプル。何を食べても良い。ただおいしいと感じる物はのみこまずに吐き出す」。 彼が実行したかって?? 当然、出来ていない。

 

 

 

東京湾 多様な顔 (その1)


東京湾 多様な顔(その1)  2013・01・14

最近週末は東京湾の東側、房総竹岡で過ごす事が多い

目の前を大型船が行き交い、正面には冠雪した富士の勇姿がみえ、左手には大島、右手には横浜が遠望できる絶景の海辺で、飽きる事のない変化が24時間みられるのがいい。

しかし、こんな素晴らしい眺望の下でもいろんなものが見えてくる。

「江戸前」は死語になる

徳川家康が江戸城を構えて以来、東京湾(当時は内海といったらしい)は海鮮物を供給する「江戸前(江戸城の前の海産物)」の食糧庫としての役割も果たしてきた。

今も築地市場に並ぶ魚介類を見れば、その種類の多さに目を見張り、東京湾の豊かさと錯覚しかねない。実際は東京湾でとれる量も種類も激減していて、アナゴやカレイ、ヒラメ、クルマエビ、カニ、貝といった海底の魚介類は築地に並ぶほど取れないそうだ。

見た目は穏やかな海だが、海の中では大変な事が進行中だということだ。

竹岡にきて暫くして旋網(まき網と呼ぶ)漁業者の島野さんと知り合い、親しくお付き合いをしている中で、教えられることは多い。怖い話ではあるが、東京湾が食糧庫としての役割を急速に失っていて、既に江戸前という従来の意味は死語になりつつあるというではないか。 事実1960年がピークとされる東京湾内の漁獲量188000トンが2003年には10分の118000トンに激減し、今も減り続けていると聞くと怖くなる。かって東京湾には旋網漁業者が20ヶ統(軒)あったそうだが、今では神奈川県に1ヶ統と千葉の5ケ統の6ケ統に減ったとのことだ。島野さんは年間500?600トンほどの水揚げで、東京湾の最南端が主たる漁場だ。島野さんの言によると、魚を求めて移動する漁法の旋網漁業でさえダメージを受けているのに、地場で刺し網などに頼っている漁法はもっとダメージが大きく廃業している数ははるかに多いはずとのことだ。原因に対する行政と漁業者の言い分は割れている。行政は乱獲だといい、漁民は水質の悪影響を上げる。私の様な素人は、もうかなり前から生活排水や工場排水に対する管理が徹底してきて水質が改善し、海がきれいになって、河川に魚が戻ってきたと思いこんでいただけに減少が続いている事は驚きであった。

島野さんはケミカルで人為的に浄化された水は、透明には成るものの魚が住める水ではなく、海藻(アマモ)も育たず産卵場や稚魚が育つ場を奪っているという。

実際に市場価値がなく全く漁業の対象になっていない魚までもが姿を消している事を、行政側の乱獲説への反証としてあげている。

東京湾 多様な顔(その2)


東京湾 多様な顔(その2)  2013・01・14

戦争が残した海辺の日常

ここにきて暫くした天気の良い日、磯を潜り北に向かう5?6人の海女を見た。後日わかった事だが、この辺の海女さんは全部が韓国人の方々とのことだ。見た目には70を下らないかなり年配の方から、50歳の方、それからもう少し若く見える人もいて3世代の海女さんから成っているようだ。

出身地は済州島や釜山あたりで、終戦直前に日本軍に徴用されて、米軍の首都上陸を想定した海上防衛ラインの強化作業に当たらされたようだ。潜水艦の侵入を防ぐ防潜網の敷設やそれより外に向かった湾口側に機雷などを敷設する作業だ。島野さんの話では、それ以外にも、内房の海岸線に沿った水深5?10メートルに繁茂し海中林を成す「カジメ(搗布)」を刈り取り、乾かし燃やした灰から「硝酸アンモニュウム」を取り出し、爆薬を作る作業もさせられていたそうである。確かに1943年に戦意高揚のために、軍部の命令で作られた国策映画「戦争と海藻」でも硝安爆薬のことが触れられているようで、広く砲弾用爆薬として利用されていたようだ。                       

カジメは竹岡に来て初めて見たが、太い幹を持つ茶褐色の昆布のような海草で、刻んでみそ汁などで食すと「とろろ」のようなぬめりと濃厚な旨味があり大変美味しいもので、地元では2月初旬の早春の食材として楽しまれている。この時期寒風の吹く磯に船を出し長い竹竿などの先についた鎌で刈り取っている光景に出くわす。また、カジメの海底林は魚介類にとっても大事なもので餌場でもあり、産卵や孵化した稚魚のそだつ場でもある。

さて、運命に翻弄された韓国人の海女に話をもどそう。

真相のほどは不明だが、終戦時に韓国への帰還という選択肢がある中で、母国からは日本軍に協力したとみられ、帰国の道を閉ざされ、残留の道を選ばざるを得なかったようだという話を聞いた。

海岸線の漁業権は漁師によって独占されている事や、まして日本人ではない彼女たちが、漁師の利権とぶつかる中で、海女として生計を立てるのは大変な苦労をしたであろう事が容易に推察され、心が痛む。

また、そのような話は房総だけではな工、全国的広がりを持つものと聞いた。

さて、意識してみると戦争の置き土産はそれだけではなく、東京湾のあちらこちらにも見られる。

東京湾要塞化の跡

古くは200年もの鎖国が破られた、1853年(寛永6年)のペリーの浦賀来訪を契機に、緊急対応として品川に6基の砲台基地「お台場」が出来たことが(首都)防衛への始まりのようだ。徳川幕府に開国をせまるアメリカ、ロシア、フランス、英国などの外国の脅威は深刻だったようで、矢継ぎ早に作られた砲台跡が各地に残る。 

時代が進み明治になってからも東京湾の要塞化は進められた。

富津岬と三浦半島の観音崎を結ぶ海上には、清国北洋水師(艦隊)やロシア太平洋艦隊の進攻に備え、9年の歳月と31万人を動員して構築した第一海堡、もう少し深いところに約30年かけて構築した第二、第三海堡がある。

第一堡は今でも竹岡から視認できる。一方、完成2年後の関東大震災で被災した第三海堡は水没し暗礁化し、海上部分は残ったものの損傷激しい第二海堡は灯台が設置されただけで放棄された。 

昭和に入ってからも、軍縮で艦船から取り外された艦砲が、海軍から移管され第一堡に設置されたようである。これによって沿岸砲台と海堡と横須賀近辺の砲台による二重の備えを持ったようである。

観音崎裏に位置する横須賀もここからは見えないが、今日では自衛隊と米海軍の艦隊の中で、最大規模と戦力を誇る第7艦隊基地があり、ときどきではあるが、浮上して航行する潜水艦やジョージ・ワシントン原子力空母も見る事が出来る。

東京湾の戦略的役割は時代とともに変化してきているが、今でも日本の、極東の、戦略上の重要拠点としての機能をはたしているようだ。

 

東京湾 多様な顔(その2)  2013・01・14

戦争が残した海辺の日常

ここにきて暫くした天気の良い日、磯を潜り北に向かう5?6人の海女を見た。後日わかった事だが、この辺の海女さんは全部が韓国人の方々とのことだ。見た目には70を下らないかなり年配の方から、50歳の方、それからもう少し若く見える人もいて3世代の海女さんから成っているようだ。

出身地は済州島や釜山あたりで、終戦直前に日本軍に徴用されて、米軍の首都上陸を想定した海上防衛ラインの強化作業に当たらされたようだ。潜水艦の侵入を防ぐ防潜網の敷設やそれより外に向かった湾口側に機雷などを敷設する作業だ。島野さんの話では、それ以外にも、内房の海岸線に沿った水深5?10メートルに繁茂し海中林を成す「カジメ(搗布)」を刈り取り、乾かし燃やした灰から「硝酸アンモニュウム」を取り出し、爆薬を作る作業もさせられていたそうである。確かに1943年に戦意高揚のために、軍部の命令で作られた国策映画「戦争と海藻」でも硝安爆薬のことが触れられているようで、広く砲弾用爆薬として利用されていたようだ。                       

カジメは竹岡に来て初めて見たが、太い幹を持つ茶褐色の昆布のような海草で、刻んでみそ汁などで食すと「とろろ」のようなぬめりと濃厚な旨味があり大変美味しいもので、地元では2月初旬の早春の食材として楽しまれている。この時期寒風の吹く磯に船を出し長い竹竿などの先についた鎌で刈り取っている光景に出くわす。また、カジメの海底林は魚介類にとっても大事なもので餌場でもあり、産卵や孵化した稚魚のそだつ場でもある。

さて、運命に翻弄された韓国人の海女に話をもどそう。

真相のほどは不明だが、終戦時に韓国への帰還という選択肢がある中で、母国からは日本軍に協力したとみられ、帰国の道を閉ざされ、残留の道を選ばざるを得なかったようだという話を聞いた。

海岸線の漁業権は漁師によって独占されている事や、まして日本人ではない彼女たちが、漁師の利権とぶつかる中で、海女として生計を立てるのは大変な苦労をしたであろう事が容易に推察され、心が痛む。

また、そのような話は房総だけではな工、全国的広がりを持つものと聞いた。

さて、意識してみると戦争の置き土産はそれだけではなく、東京湾のあちらこちらにも見られる。

東京湾要塞化の跡

古くは200年もの鎖国が破られた、1853年(寛永6年)のペリーの浦賀来訪を契機に、緊急対応として品川に6基の砲台基地「お台場」が出来たことが(首都)防衛への始まりのようだ。徳川幕府に開国をせまるアメリカ、ロシア、フランス、英国などの外国の脅威は深刻だったようで、矢継ぎ早に作られた砲台跡が各地に残る。 

時代が進み明治になってからも東京湾の要塞化は進められた。

富津岬と三浦半島の観音崎を結ぶ海上には、清国北洋水師(艦隊)やロシア太平洋艦隊の進攻に備え、9年の歳月と31万人を動員して構築した第一海堡、もう少し深いところに約30年かけて構築した第二、第三海堡がある。

第一堡は今でも竹岡から視認できる。一方、完成2年後の関東大震災で被災した第三海堡は水没し暗礁化し、海上部分は残ったものの損傷激しい第二海堡は灯台が設置されただけで放棄された。 

昭和に入ってからも、軍縮で艦船から取り外された艦砲が、海軍から移管され第一堡に設置されたようである。これによって沿岸砲台と海堡と横須賀近辺の砲台による二重の備えを持ったようである。

観音崎裏に位置する横須賀もここからは見えないが、今日では自衛隊と米海軍の艦隊の中で、最大規模と戦力を誇る第7艦隊基地があり、ときどきではあるが、浮上して航行する潜水艦やジョージ・ワシントン原子力空母も見る事が出来る。

東京湾の戦略的役割は時代とともに変化してきているが、今でも日本の、極東の、戦略上の重要拠点としての機能をはたしているようだ。

 

心が創る未来


 

正月番組でダライ・ラマ法王と日本の科学者のパネルディスカッションを見た。色即是空 の一体不二を説く仏教と、米沢富美子慶応名誉教授の「絶対」の否定につながる8つの「あいまいさ」の話は、真理の実体をおぼろげながら示唆しているようで実に刺激的だった。絶対神をおかない仏教と推論し検証する科学は、内(測る事の出来ない心)と外(見たり測ることができる)からのアプローチの違いはあるものの、「真理」の探究者という点では共通だ。アインシュタインはかって「宗教抜きの科学は足が、科学抜きの宗教は目が不自由と同然」といったが、二つのアプローチが融合することで真理を探る暗がりに、少し光が当たりだした気がした。

全く唐突に、アシカの声が聞こえるモントレー海岸近くのホテルでのシーンが脳裏によみがえった。もう20年も前のことだったが、国籍やプロフェッションの違う20人ほどが集まって「液晶フラットパネルディスプレイ事業」への参入の是非を決める喧々諤々の議論をしていた。なぜ、真理の探究という高尚な話から、いきなりこんなところに話が飛んだか私もよくわからなかったが、科学者があまり踏み込んでいない「こころ」が結果に与える大きさに、一瞬おもいが至ったからだ。

実は会議の主催者はわたしで、そのときすでに参入を決意していたが、会議の行くえは思いもよらず、「参入すべきでない」という方向に傾いていた。

反対の理由は、当社は最後発の市場参入者で実績がないこと、当時のTFT液晶ディスプレイパネルの品質は悪く、PCなどへの搭載率はまだ低く市場サイズが小さいこと、仮に本格搭載が始まってもフラットパネルの最終需要先がコンシューマーで値下がりが強烈なコモディティ製品であることや、そのパネルを創るための製造設備には値引き圧力が猛烈で利益確保が困難であること、また半導体の様な微細化を可能とする技術開発で付加価値を付ける事が困難といった経験とそこから学んだ推論による論理的かつ科学的なディベートだった。

わたしは、品質問題を解決する新技術を検証する、業界1位と2位の顧客の支援を確保する、競合より強力な経営リソースを即刻手に入れる、競合の追随を許さないトップメーカーになること、そしてノートブックPCからデスクトップPC,そしてテレビと続く成長市場で盤石の事業基盤を築くこと、私が事業の牽引をする責任者になる事を力説し、反対者を説得し最後には参入を決めた。私のディベートは反論には十分留意もし敬意も払うが、最後は自分が創りたい未来は「俺に創らせろ」という半ば強引なものだった。

1993年秋にAKT(アプライドコマツテクノロジ―)を創立し1995年秋に、阪神淡路大震災の傷癒えぬ神戸に新社屋を建て本社を置いた。カリフォルニアに研究開発チームをおき、テキサスに製造拠点を置くグローバルカンパニーのスタートだ。幸いに新技術を取り入れたシステムは、それまでの品質問題を解決しただけでなく、生産性を飛躍的に改善したことで業界のデファクトとなり、第1及び2位の顧客にとどまらず日本のほとんどの顧客と急速に台頭する韓国や台湾勢にも急速に採用されるにいたった。またコマツと合弁会社を設立したことで優秀な経営人材を短期日に向かいいれすることができ、その後の急速なアジア全域への事業拡大を可能とした、

創立して10年目でAKTは市場シェア0から95%、売り上げ規模0から1,000億円のグローバルリーダとなった。事業モデルもメーカーからファブライトメーカーに変身するなど進化を図った。 皮肉なことにかっての参入反対論者の指摘は、この20年の間で、日本の顧客に顕著に表れた。コモディティ化の著しい産業で、差別化の難しい中で激烈な競争を繰り返し、韓国勢や台湾勢の攻勢に押しまくられ、最後には疲労困憊して市場から大多数が退出してしまった。心が無い未来の設計図は無いに等しい。

反対論者の指摘するような未来は創らないという「意志(こころ)」がなくて、「運」も味方してくれなかったら、私も退出をしていただろう。


飛躍しすぎを反省し、般若心経で心を鍛えよう。

諸行無常・・諸法無我・・涅槃静寂・・

思い込み


 

誰にも思い込みはある。思い込みが過ぎると、見えないものまで見えるようになる。私がスポーツカーでゴルフ場に着いたのを見ていた、同じくスポーツカーマニアの方と偶然プレイをすることになった。ランチタイムに彼は若いころの「動態視力」の話を始めた。レーストラックを時速200Kmで走っている時、対抗して向かってくるツバメの目玉が視認出来たというのである。私も内緒だがそれぐらいのスピードで走ったことがあるが、ツバメどころかカラスだってハトだって、全く見えなかった。

其れが目玉だなんて・・・・Oh boy!!

ほら吹きにはとても見えない、ナイスミドルで、好印象を持ったが、後半のゴルフに悪影響が出た。ツバメの目玉の千倍も大きな、しかも止まっているゴルフボールを空振りしてしまうありさまだ。ツバメは鳥の中で最速で飛び、そのスピードは時速170Km、対抗する車速が200Kmとすると合計370Kmだ。レーストラックの直線部分でツバメと交差する時のスピードは秒速102.7m。そりゃ見えるわけないわな!

とはいうものの、視力検査のボードの最下部が全部見えたら視力2.0とのことで、アフリカには視力4.0という人もいるというからと考えると自信がなくなった。

好機が巡ってきた、F1ドライバーでF1モナコGP、インディ500マイルレース、ルマン24時間レースの3大レースに出場した初の日本人ドライバーの中野信治氏とおあいしたからである。当然私の疑問をぶつけた。「見えませんし見えたら、あの世行きです」とのことだった。

私も思い込みはある方だ。若いころは「絶対なになにだ」などといったものだが、ツバメの目玉に変わる色々な、見えないものが見えていたんだろう。

ところでスポーツカーはそろそろ卒業しようかと考えている。動体視力のせいではない。バケットシートに体が入りづらくなったからね。