東京湾 多様な顔(その2) 2013・01・14
戦争が残した海辺の日常
ここにきて暫くした天気の良い日、磯を潜り北に向かう5?6人の海女を見た。後日わかった事だが、この辺の海女さんは全部が韓国人の方々とのことだ。見た目には70を下らないかなり年配の方から、50歳の方、それからもう少し若く見える人もいて3世代の海女さんから成っているようだ。
出身地は済州島や釜山あたりで、終戦直前に日本軍に徴用されて、米軍の首都上陸を想定した海上防衛ラインの強化作業に当たらされたようだ。潜水艦の侵入を防ぐ防潜網の敷設やそれより外に向かった湾口側に機雷などを敷設する作業だ。島野さんの話では、それ以外にも、内房の海岸線に沿った水深5?10メートルに繁茂し海中林を成す「カジメ(搗布)」を刈り取り、乾かし燃やした灰から「硝酸アンモニュウム」を取り出し、爆薬を作る作業もさせられていたそうである。確かに1943年に戦意高揚のために、軍部の命令で作られた国策映画「戦争と海藻」でも硝安爆薬のことが触れられているようで、広く砲弾用爆薬として利用されていたようだ。
カジメは竹岡に来て初めて見たが、太い幹を持つ茶褐色の昆布のような海草で、刻んでみそ汁などで食すと「とろろ」のようなぬめりと濃厚な旨味があり大変美味しいもので、地元では2月初旬の早春の食材として楽しまれている。この時期寒風の吹く磯に船を出し長い竹竿などの先についた鎌で刈り取っている光景に出くわす。また、カジメの海底林は魚介類にとっても大事なもので餌場でもあり、産卵や孵化した稚魚のそだつ場でもある。
さて、運命に翻弄された韓国人の海女に話をもどそう。
真相のほどは不明だが、終戦時に韓国への帰還という選択肢がある中で、母国からは日本軍に協力したとみられ、帰国の道を閉ざされ、残留の道を選ばざるを得なかったようだという話を聞いた。
海岸線の漁業権は漁師によって独占されている事や、まして日本人ではない彼女たちが、漁師の利権とぶつかる中で、海女として生計を立てるのは大変な苦労をしたであろう事が容易に推察され、心が痛む。
また、そのような話は房総だけではな工、全国的広がりを持つものと聞いた。
さて、意識してみると戦争の置き土産はそれだけではなく、東京湾のあちらこちらにも見られる。
東京湾要塞化の跡
古くは200年もの鎖国が破られた、1853年(寛永6年)のペリーの浦賀来訪を契機に、緊急対応として品川に6基の砲台基地「お台場」が出来たことが(首都)防衛への始まりのようだ。徳川幕府に開国をせまるアメリカ、ロシア、フランス、英国などの外国の脅威は深刻だったようで、矢継ぎ早に作られた砲台跡が各地に残る。
時代が進み明治になってからも東京湾の要塞化は進められた。
富津岬と三浦半島の観音崎を結ぶ海上には、清国北洋水師(艦隊)やロシア太平洋艦隊の進攻に備え、9年の歳月と31万人を動員して構築した第一海堡、もう少し深いところに約30年かけて構築した第二、第三海堡がある。
第一海堡は今でも竹岡から視認できる。一方、完成2年後の関東大震災で被災した第三海堡は水没し暗礁化し、海上部分は残ったものの損傷激しい第二海堡は灯台が設置されただけで放棄された。
昭和に入ってからも、軍縮で艦船から取り外された艦砲が、海軍から移管され第一海堡に設置されたようである。これによって沿岸砲台と海堡と横須賀近辺の砲台による二重の備えを持ったようである。
観音崎裏に位置する横須賀もここからは見えないが、今日では自衛隊と米海軍の艦隊の中で、最大規模と戦力を誇る第7艦隊基地があり、ときどきではあるが、浮上して航行する潜水艦やジョージ・ワシントン原子力空母も見る事が出来る。
東京湾の戦略的役割は時代とともに変化してきているが、今でも日本の、極東の、戦略上の重要拠点としての機能をはたしているようだ。
東京湾 多様な顔(その2) 2013・01・14
戦争が残した海辺の日常
ここにきて暫くした天気の良い日、磯を潜り北に向かう5?6人の海女を見た。後日わかった事だが、この辺の海女さんは全部が韓国人の方々とのことだ。見た目には70を下らないかなり年配の方から、50歳の方、それからもう少し若く見える人もいて3世代の海女さんから成っているようだ。
出身地は済州島や釜山あたりで、終戦直前に日本軍に徴用されて、米軍の首都上陸を想定した海上防衛ラインの強化作業に当たらされたようだ。潜水艦の侵入を防ぐ防潜網の敷設やそれより外に向かった湾口側に機雷などを敷設する作業だ。島野さんの話では、それ以外にも、内房の海岸線に沿った水深5?10メートルに繁茂し海中林を成す「カジメ(搗布)」を刈り取り、乾かし燃やした灰から「硝酸アンモニュウム」を取り出し、爆薬を作る作業もさせられていたそうである。確かに1943年に戦意高揚のために、軍部の命令で作られた国策映画「戦争と海藻」でも硝安爆薬のことが触れられているようで、広く砲弾用爆薬として利用されていたようだ。
カジメは竹岡に来て初めて見たが、太い幹を持つ茶褐色の昆布のような海草で、刻んでみそ汁などで食すと「とろろ」のようなぬめりと濃厚な旨味があり大変美味しいもので、地元では2月初旬の早春の食材として楽しまれている。この時期寒風の吹く磯に船を出し長い竹竿などの先についた鎌で刈り取っている光景に出くわす。また、カジメの海底林は魚介類にとっても大事なもので餌場でもあり、産卵や孵化した稚魚のそだつ場でもある。
さて、運命に翻弄された韓国人の海女に話をもどそう。
真相のほどは不明だが、終戦時に韓国への帰還という選択肢がある中で、母国からは日本軍に協力したとみられ、帰国の道を閉ざされ、残留の道を選ばざるを得なかったようだという話を聞いた。
海岸線の漁業権は漁師によって独占されている事や、まして日本人ではない彼女たちが、漁師の利権とぶつかる中で、海女として生計を立てるのは大変な苦労をしたであろう事が容易に推察され、心が痛む。
また、そのような話は房総だけではな工、全国的広がりを持つものと聞いた。
さて、意識してみると戦争の置き土産はそれだけではなく、東京湾のあちらこちらにも見られる。
東京湾要塞化の跡
古くは200年もの鎖国が破られた、1853年(寛永6年)のペリーの浦賀来訪を契機に、緊急対応として品川に6基の砲台基地「お台場」が出来たことが(首都)防衛への始まりのようだ。徳川幕府に開国をせまるアメリカ、ロシア、フランス、英国などの外国の脅威は深刻だったようで、矢継ぎ早に作られた砲台跡が各地に残る。
時代が進み明治になってからも東京湾の要塞化は進められた。
富津岬と三浦半島の観音崎を結ぶ海上には、清国北洋水師(艦隊)やロシア太平洋艦隊の進攻に備え、9年の歳月と31万人を動員して構築した第一海堡、もう少し深いところに約30年かけて構築した第二、第三海堡がある。
第一海堡は今でも竹岡から視認できる。一方、完成2年後の関東大震災で被災した第三海堡は水没し暗礁化し、海上部分は残ったものの損傷激しい第二海堡は灯台が設置されただけで放棄された。
昭和に入ってからも、軍縮で艦船から取り外された艦砲が、海軍から移管され第一海堡に設置されたようである。これによって沿岸砲台と海堡と横須賀近辺の砲台による二重の備えを持ったようである。
観音崎裏に位置する横須賀もここからは見えないが、今日では自衛隊と米海軍の艦隊の中で、最大規模と戦力を誇る第7艦隊基地があり、ときどきではあるが、浮上して航行する潜水艦やジョージ・ワシントン原子力空母も見る事が出来る。
東京湾の戦略的役割は時代とともに変化してきているが、今でも日本の、極東の、戦略上の重要拠点としての機能をはたしているようだ。