所詮「Dust」、されど「Dust」

 

Part-I:

誕生日だからということではないんですが、

最近とみに強くなってきている、ある言葉へのこだわりについてお話しします。

 

実は「Dust(ほこり)」なんです。

 

齢を重ね少しだけ「Dust」に近づいてきたせい かもしれません。

私たちは母から生まれてきたために、はじまりの「Dust」を意識しませんがずっと前は「Dust 」だったんです。

その前さらにさかのぼると地球すら「Dust」だったんです。

物の最小単位や宇宙の広さ、生命の起源など、

今も世界中の研究者が取り組んでいますが、それらは「Dust」についての研究ともいえるものです。
誕生祝いの「獺祭」二合で夕べ得た結論は、私は「所詮は Dust,されどDust」でした。

もう少し違う形で言うならば、

私は「所詮は宇宙の一部、されど宇宙そのもの」、

 

ついでに酔いのついでで言ちゃえば、

私は「神様の一部でもあるが、神様そのものでもある」ということでした。

霊験あらたか、論理的整合性ができる前に獺祭の杜氏の技の前に、

昏睡状態になりました。

 

結論は万物の創造主である「Dust」を共有する自分に

「誇り」そして「自覚」と「感謝」が必要ということでした。

 

Part-II:

Dustが気になり出したのは、

今から20年も前の私の提案書のサブタイトルに関する議論からでした。

提案は事業モデルの変換で、

製品を売りきりにする「メーカー型モデル」から、

納品してその製品寿命が終焉するまでの生涯サポートする

「メーカー+サービス型モデル」で、

私がつけたサブタイトルは、

「 from the cradle to the grave」でした。

 

それに対しユダヤ人の友人は

「 dust to dust」のほうがアピールするというものでした。

私の提案でははじまりがCradle(ゆりかご)で終わりがGrave【お墓】ですから、

Dust(埃)で始まりDustで終わる時間軸で考えると比較にならないぐらいの短かさでしたが、

ビジネスとしては妥当なものだったと思います。

 

ただ、Dust で始まりDustで終わる(もしくは戻る)という友人(たまたまユダヤ人)の概念は、

ビジネスというより死生観という点で新鮮で心に残るものでした。

そんな議論の10年ほど前に、

その友人と何度かエルサレムを訪れました。

丘の上に燦然と輝くモスクの足元の

ウェーリングウオール(嘆きの壁)のすぐ横を掘り進んでいるトンネルに案内された時、

この丘陵都市が何度も新たな征服者によって破壊と建設が繰り返されたことを知りました。

何しろ掘り進むトンネルの断面は、

何層にもわたる破壊の跡が見て取れるからです。

人間の業の深さを感じずにはいられませんでした。

どんな栄華も時の流れの中で朽ち果て、最後にはDust になっていく。

 

一歩エルサレムを出ると土獏が連なる丘陵地帯が続きます。

まさに「Dust」の海とでも呼べる荒涼たる灼熱の世界です。

 

 

この記事は2016年7月27日に書かれたものです。