能登 福浦湊 朝鮮通信使の足跡

 

「私は朝鮮通信使(国使)の子孫です」。

 

16年も前にサムスンの社外重役の一人が唐突に話してくれたことが、

どこかに引っ掛かっていた。

 

能登旅行の起点金沢への帰路、

朝鮮(正確には渤海)からの

国使の足跡に触れるチャンスが巡ってきた。

半島西側のほぼ中央「福浦港」がその地である。

海食による崖と岩礁地帯に二つの湾口を持つ良港である。

ただ、陸側には消費地(港町)を形成する耕作可能な平地は限られていて、

小さな漁港という風情である。

 

この地が初めて日本史(新日本紀)に登場するのが772年(宝亀3年/飛鳥時代)で、

帰国を急ぐ渤海使節団が時化で遭難したさいに生存者が保護された場所(福良津)としてである。

さらにそれから111年後の883年(元慶7年/平安時代)には

渤海国使の帰国船舶の造船・修理の地(福良泊)としてまた名を刻む。

中でも「泊」は律令制下の官港を呼び、

この「泊」の付く港は北陸道で唯一「福良泊」であった。

 

渤海国は230年間に国使を13から15回、渤海使を34回派遣したようで、

その間の日本側の寄港地として、ここ「福良津(福浦)」が利用されたようだ。

私の友人の先祖「朝鮮通信使」は徳川幕府が、

鎖国令の中で再開した「通信使」ではないかとおもう。

この地に再び賑わいが戻るのは、「北前船」の登場である。

1690年に93軒の戸数が1861年の151年間に194軒と増加している。

時代の大きなうねりのなかで、

思いっきりそれに付き合ってきた福浦の人々の逞しさに少なからず感動した。

 

人のいない岸壁にたたずむと、北前船の全盛期にタイムスリップして、

福浦芸者の三味線に合わせて歌ったという船乗りの歌「もじり袖」が聞こえるような気がしてくる。

 

 

 

えさか、えさかさんと 乗り出す船は 今朝も二艘出た 三艘出たぞ。

今朝も二艘出た 三艘出たぞ。福浦もじりを船頭衆に着せて けさの船出に また惚れた。

けさの船出に また惚れた。

 

 

 

この記事は2016年7月3日に書かれたものです。