ソウルフレンド


ソウルフレンドと呼べる人は、滅多にいない。
ダンとダリアはまさにそんなカップルだ。ダンはベル研でプラズマとX線とレーザの研究に従事し、ダリアは大学で量子物理学を教えた科学者夫婦だ。二人とも建国間もないイスラエルに生まれ中東戦争にも従軍した。イスラエルとヨルダンを分かつ死海のほとりのマサダ砦を訪れた時、新兵を向かいいれる準備の光景に出くわした。赤々と燃える松明に照らし出された頂上から400メートル下に、包囲網を敷いたローマ軍の陣地あとが夕闇に白く浮き上がる。陥落の屈辱より自決を選んだユダヤ民族の亡国の嘆きが聞こえるようだ。新兵ははためく国旗のもと「Masada shall never fall again」と固く誓うとのことだ。ダンとダリアに何時も感じる「誇り」は長い流浪の年月にも、決して色あせぬユダヤ民族と国家への帰依と繁栄を願う心と感じられる。
日本は世界最古の王制(天皇制)を敷く国だ。諸説あるが初代天皇は神武天皇で建国は紀元前660年である。その建国の日211日がまもなくだ。
戦後の米軍の占領下、紀元節は意図的に軽視されてきた節がある。日本人と国家のルーツに思いを馳せない、それらの人あって今日の自分がいることを感謝しない民族の未来はどうなるのだろうか。ダンとダリアは私に日本人の誇りを気付かせてくれた魂の友である。

 

 

Wanted !! 旬の政治家


Wanted!! 「旬の政治家」  2013・2・05

食材には「旬」がある。美味いのに加えて、季節を少しばかり先取りする事とその移り変わりも楽しめる。その点日本のように四季のはっきりしたところに住む者は幸運だ。

しかし、よく考えると「旬」という概念は実にあいまいだ。必ずしも春夏秋冬の季節にとらわれない定義もあっていい。 「ちょっと早いけど、これからが飲み頃なのよ」と言って10年もののワインが出てくる。これも拡大解釈すれば、「旬のワイン」と言っても差し支えない。

食から遠く離れた政治家の「いい、悪い」から、「旬」の話になった。

ここでも旬の定義がしばしの議論になったが、経験と実績を重ね、国のリーダーとしての素養と自覚を持ち、仕事がバリバリこなせるような政治家が「旬な政治家」という事に落ち着いた。

其れはちょうど10年ものワインの「旬」に通じるものだ。

ただ、日本の実情を見ると、ボジョレ?ヌーボーの様な早飲みワイン的「○○○チルドレン」や、賞味期限切れした政治屋家業の「△△代目」政治家が目につき、将来展望を語り未来を託したい「旬」の政治家が手薄に見える。

世界が激変しているこの時代に、2000年以降からだけでも、日本丸の船長(総理大臣)が13回も変わるという事態はとてもまともではない。

こんな短い就任期間の中で、波荒い岩礁地帯を乗り切るなんて至難の業だ。

ましてやどこの港を目指すかの展望も示さず、国民を奮い立たすことなんかできない。しかもこの間の、総理就任の平均年齢が61歳で、明治維新の立役者たちの平均年齢28?30歳と比べると、当時の寿命を考慮してもかなり高い。

ちなみに三国志の英雄、劉備・関羽・張飛、たちは20歳代前半、超大国アメリカの大統領のケネディ就任時の43歳と比べても大きな差である。

変化を恐れ、拒みつづける日本社会で、リーダーの若返りがなかなか起こらない。これは日本全体が落ち込んだ、世代にまたがる「幼児化」の結果ではないだろうか? 今日も、ワイドショウ化したニュース番組で、居並ぶ知ったかぶりの素人コメンテーターの空疎な言葉が聞こえてくる。経済界を代表するという変革をリードできなかったお年寄りの声が聞こえてくる。

若ものよ覇をとなえよ! 年配者よ気力・体力ある間は働き続けよう! 変革は自分から起こそう! みんな 今が「旬」だ !!

粗食の薦め


大切なものは失ってわかるという。中でも健康はその際たるものだ。

日ごろの不摂生を反省し1泊2日の検査入院をした。

都合3回の病院食をいただいたが、量が少なく、味が薄く、おかずが少ない。栄養士さんの前では口憚るが、正直「まずい」。毎食600Kcalを目安に一日1800Kcalを目標にしているとのことだ。少し反省しついでに日ごろの自分の摂取カロリーを計算してみた。大体2500から3000Kcalぐらいとっている勘定だ。それを越えるケースもちょこちょこある。意志薄弱な自分を責めたくは無いので、太る原因はほかに求めることにした。友人が悪いのだ。なかでも、旨い物をよく知っていて、飲んでかつ楽しい友人は最悪だ。私の辞書に「No」が無いことを知っているようだ。しかも、悪いことに、栄養士さんがくれた食品群を見ていてわかったことは、旨いものは健康に悪く、まずいものは健康に良いようだ。

ふと、宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」の詩の中で一日の食事について、「玄米4合と味噌と野菜」があれば良いと言及していたことを思い出した。それから計算すると大体1500Kcalぐらいだ。しかも健康にもよさそうだ。アメリカの友人が言っていた究極のダイエット、「ルールはシンプル。何を食べても良い。ただおいしいと感じる物はのみこまずに吐き出す」。 彼が実行したかって?? 当然、出来ていない。

 

 

 

東京湾 多様な顔 (その1)


東京湾 多様な顔(その1)  2013・01・14

最近週末は東京湾の東側、房総竹岡で過ごす事が多い

目の前を大型船が行き交い、正面には冠雪した富士の勇姿がみえ、左手には大島、右手には横浜が遠望できる絶景の海辺で、飽きる事のない変化が24時間みられるのがいい。

しかし、こんな素晴らしい眺望の下でもいろんなものが見えてくる。

「江戸前」は死語になる

徳川家康が江戸城を構えて以来、東京湾(当時は内海といったらしい)は海鮮物を供給する「江戸前(江戸城の前の海産物)」の食糧庫としての役割も果たしてきた。

今も築地市場に並ぶ魚介類を見れば、その種類の多さに目を見張り、東京湾の豊かさと錯覚しかねない。実際は東京湾でとれる量も種類も激減していて、アナゴやカレイ、ヒラメ、クルマエビ、カニ、貝といった海底の魚介類は築地に並ぶほど取れないそうだ。

見た目は穏やかな海だが、海の中では大変な事が進行中だということだ。

竹岡にきて暫くして旋網(まき網と呼ぶ)漁業者の島野さんと知り合い、親しくお付き合いをしている中で、教えられることは多い。怖い話ではあるが、東京湾が食糧庫としての役割を急速に失っていて、既に江戸前という従来の意味は死語になりつつあるというではないか。 事実1960年がピークとされる東京湾内の漁獲量188000トンが2003年には10分の118000トンに激減し、今も減り続けていると聞くと怖くなる。かって東京湾には旋網漁業者が20ヶ統(軒)あったそうだが、今では神奈川県に1ヶ統と千葉の5ケ統の6ケ統に減ったとのことだ。島野さんは年間500?600トンほどの水揚げで、東京湾の最南端が主たる漁場だ。島野さんの言によると、魚を求めて移動する漁法の旋網漁業でさえダメージを受けているのに、地場で刺し網などに頼っている漁法はもっとダメージが大きく廃業している数ははるかに多いはずとのことだ。原因に対する行政と漁業者の言い分は割れている。行政は乱獲だといい、漁民は水質の悪影響を上げる。私の様な素人は、もうかなり前から生活排水や工場排水に対する管理が徹底してきて水質が改善し、海がきれいになって、河川に魚が戻ってきたと思いこんでいただけに減少が続いている事は驚きであった。

島野さんはケミカルで人為的に浄化された水は、透明には成るものの魚が住める水ではなく、海藻(アマモ)も育たず産卵場や稚魚が育つ場を奪っているという。

実際に市場価値がなく全く漁業の対象になっていない魚までもが姿を消している事を、行政側の乱獲説への反証としてあげている。

東京湾 多様な顔(その2)


東京湾 多様な顔(その2)  2013・01・14

戦争が残した海辺の日常

ここにきて暫くした天気の良い日、磯を潜り北に向かう5?6人の海女を見た。後日わかった事だが、この辺の海女さんは全部が韓国人の方々とのことだ。見た目には70を下らないかなり年配の方から、50歳の方、それからもう少し若く見える人もいて3世代の海女さんから成っているようだ。

出身地は済州島や釜山あたりで、終戦直前に日本軍に徴用されて、米軍の首都上陸を想定した海上防衛ラインの強化作業に当たらされたようだ。潜水艦の侵入を防ぐ防潜網の敷設やそれより外に向かった湾口側に機雷などを敷設する作業だ。島野さんの話では、それ以外にも、内房の海岸線に沿った水深5?10メートルに繁茂し海中林を成す「カジメ(搗布)」を刈り取り、乾かし燃やした灰から「硝酸アンモニュウム」を取り出し、爆薬を作る作業もさせられていたそうである。確かに1943年に戦意高揚のために、軍部の命令で作られた国策映画「戦争と海藻」でも硝安爆薬のことが触れられているようで、広く砲弾用爆薬として利用されていたようだ。                       

カジメは竹岡に来て初めて見たが、太い幹を持つ茶褐色の昆布のような海草で、刻んでみそ汁などで食すと「とろろ」のようなぬめりと濃厚な旨味があり大変美味しいもので、地元では2月初旬の早春の食材として楽しまれている。この時期寒風の吹く磯に船を出し長い竹竿などの先についた鎌で刈り取っている光景に出くわす。また、カジメの海底林は魚介類にとっても大事なもので餌場でもあり、産卵や孵化した稚魚のそだつ場でもある。

さて、運命に翻弄された韓国人の海女に話をもどそう。

真相のほどは不明だが、終戦時に韓国への帰還という選択肢がある中で、母国からは日本軍に協力したとみられ、帰国の道を閉ざされ、残留の道を選ばざるを得なかったようだという話を聞いた。

海岸線の漁業権は漁師によって独占されている事や、まして日本人ではない彼女たちが、漁師の利権とぶつかる中で、海女として生計を立てるのは大変な苦労をしたであろう事が容易に推察され、心が痛む。

また、そのような話は房総だけではな工、全国的広がりを持つものと聞いた。

さて、意識してみると戦争の置き土産はそれだけではなく、東京湾のあちらこちらにも見られる。

東京湾要塞化の跡

古くは200年もの鎖国が破られた、1853年(寛永6年)のペリーの浦賀来訪を契機に、緊急対応として品川に6基の砲台基地「お台場」が出来たことが(首都)防衛への始まりのようだ。徳川幕府に開国をせまるアメリカ、ロシア、フランス、英国などの外国の脅威は深刻だったようで、矢継ぎ早に作られた砲台跡が各地に残る。 

時代が進み明治になってからも東京湾の要塞化は進められた。

富津岬と三浦半島の観音崎を結ぶ海上には、清国北洋水師(艦隊)やロシア太平洋艦隊の進攻に備え、9年の歳月と31万人を動員して構築した第一海堡、もう少し深いところに約30年かけて構築した第二、第三海堡がある。

第一堡は今でも竹岡から視認できる。一方、完成2年後の関東大震災で被災した第三海堡は水没し暗礁化し、海上部分は残ったものの損傷激しい第二海堡は灯台が設置されただけで放棄された。 

昭和に入ってからも、軍縮で艦船から取り外された艦砲が、海軍から移管され第一堡に設置されたようである。これによって沿岸砲台と海堡と横須賀近辺の砲台による二重の備えを持ったようである。

観音崎裏に位置する横須賀もここからは見えないが、今日では自衛隊と米海軍の艦隊の中で、最大規模と戦力を誇る第7艦隊基地があり、ときどきではあるが、浮上して航行する潜水艦やジョージ・ワシントン原子力空母も見る事が出来る。

東京湾の戦略的役割は時代とともに変化してきているが、今でも日本の、極東の、戦略上の重要拠点としての機能をはたしているようだ。

 

東京湾 多様な顔(その2)  2013・01・14

戦争が残した海辺の日常

ここにきて暫くした天気の良い日、磯を潜り北に向かう5?6人の海女を見た。後日わかった事だが、この辺の海女さんは全部が韓国人の方々とのことだ。見た目には70を下らないかなり年配の方から、50歳の方、それからもう少し若く見える人もいて3世代の海女さんから成っているようだ。

出身地は済州島や釜山あたりで、終戦直前に日本軍に徴用されて、米軍の首都上陸を想定した海上防衛ラインの強化作業に当たらされたようだ。潜水艦の侵入を防ぐ防潜網の敷設やそれより外に向かった湾口側に機雷などを敷設する作業だ。島野さんの話では、それ以外にも、内房の海岸線に沿った水深5?10メートルに繁茂し海中林を成す「カジメ(搗布)」を刈り取り、乾かし燃やした灰から「硝酸アンモニュウム」を取り出し、爆薬を作る作業もさせられていたそうである。確かに1943年に戦意高揚のために、軍部の命令で作られた国策映画「戦争と海藻」でも硝安爆薬のことが触れられているようで、広く砲弾用爆薬として利用されていたようだ。                       

カジメは竹岡に来て初めて見たが、太い幹を持つ茶褐色の昆布のような海草で、刻んでみそ汁などで食すと「とろろ」のようなぬめりと濃厚な旨味があり大変美味しいもので、地元では2月初旬の早春の食材として楽しまれている。この時期寒風の吹く磯に船を出し長い竹竿などの先についた鎌で刈り取っている光景に出くわす。また、カジメの海底林は魚介類にとっても大事なもので餌場でもあり、産卵や孵化した稚魚のそだつ場でもある。

さて、運命に翻弄された韓国人の海女に話をもどそう。

真相のほどは不明だが、終戦時に韓国への帰還という選択肢がある中で、母国からは日本軍に協力したとみられ、帰国の道を閉ざされ、残留の道を選ばざるを得なかったようだという話を聞いた。

海岸線の漁業権は漁師によって独占されている事や、まして日本人ではない彼女たちが、漁師の利権とぶつかる中で、海女として生計を立てるのは大変な苦労をしたであろう事が容易に推察され、心が痛む。

また、そのような話は房総だけではな工、全国的広がりを持つものと聞いた。

さて、意識してみると戦争の置き土産はそれだけではなく、東京湾のあちらこちらにも見られる。

東京湾要塞化の跡

古くは200年もの鎖国が破られた、1853年(寛永6年)のペリーの浦賀来訪を契機に、緊急対応として品川に6基の砲台基地「お台場」が出来たことが(首都)防衛への始まりのようだ。徳川幕府に開国をせまるアメリカ、ロシア、フランス、英国などの外国の脅威は深刻だったようで、矢継ぎ早に作られた砲台跡が各地に残る。 

時代が進み明治になってからも東京湾の要塞化は進められた。

富津岬と三浦半島の観音崎を結ぶ海上には、清国北洋水師(艦隊)やロシア太平洋艦隊の進攻に備え、9年の歳月と31万人を動員して構築した第一海堡、もう少し深いところに約30年かけて構築した第二、第三海堡がある。

第一堡は今でも竹岡から視認できる。一方、完成2年後の関東大震災で被災した第三海堡は水没し暗礁化し、海上部分は残ったものの損傷激しい第二海堡は灯台が設置されただけで放棄された。 

昭和に入ってからも、軍縮で艦船から取り外された艦砲が、海軍から移管され第一堡に設置されたようである。これによって沿岸砲台と海堡と横須賀近辺の砲台による二重の備えを持ったようである。

観音崎裏に位置する横須賀もここからは見えないが、今日では自衛隊と米海軍の艦隊の中で、最大規模と戦力を誇る第7艦隊基地があり、ときどきではあるが、浮上して航行する潜水艦やジョージ・ワシントン原子力空母も見る事が出来る。

東京湾の戦略的役割は時代とともに変化してきているが、今でも日本の、極東の、戦略上の重要拠点としての機能をはたしているようだ。